オ ー デ ィ オ キ ラ ー
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 第二部 カストラート 〜角魔大鷹編

 第十二章 光と闇の果てに





 ヤマト、たった一つもいい想い出がない灰色の街と居場所のない屋敷。
 父は母の写真ばかり見つめてはため息をつく。俺の心は溜息に切り刻まれていく。そんな父が余命半年だと執事の郷原に聞かされた。
 何の報告もなくヤマトに帰った俺は、ウィーン少年合唱団から強制退学処分になった。
 ガブリエルから届いたエアメールも、読まずに破り捨てた。

 読むことで、決意が変りそうだったから……。

 ケビンとの約束、自力でカストラートになる……そのための手段は、女になる事しかなかった。それは俺が未成年だったから。
 当時、性同一性障害の手術は低年齢化されていた。外科医の見解では手術は早いほどいいとされ、12歳から受けられるよう法的に認められた。しかし、それには必ず親の許可がいる。親の許可無く本人の意志で認められる年齢は18歳、しかしそれでは、俺の場合意味がない。
 性転換手術は許される。カストラートになるために手術をすると言えば非人道的、違法という言葉で斬捨てられる。
 理解できない事はないが、そんな法律は道をふさぐ山だ。唯一通り抜けられるトンネルが性同一性障害という細く窮屈な道。

 人間はセックスでしか肉体改造の人道的か否かを判断できないザコばかりだ。

 ケビンに誓った。
 俺にとって芸術への理解能力がない世界でカストラートになる道は、性同一性障害のフリをして手術をする事しか選択手はなかった。
「性転換手術の先進国タイ……」
 インターネットを見ながら、俺の計画は立ち上がった。
 タイへ行き手術をする、子供の俺には父へ頼む意外に手段はなかった。


 その朝、俺は重すぎるドアを開けた。咳き込むのを止めて冷たい目で俺を見る父に、母の姿になると言った。
「だからもう、俺に冷たくしないでくれ……最後までアンタを看る」
 父は狂喜して涙を流し、俺の手術をすんなり受け入れ肩を抱きしめた。
 反対の素振りさえも見せぬ父には落胆した。今さらながら愛想が尽きた。
 そして、認めたくない悲しみが胸の奥を突き上げた。

 自分を息子として、止めて欲しかったのか?

 そんな父親としての愛を望んでいた自分にも嫌気が差した。
「お前は涼子として生まれ変わるんだ。なぜこのことに気づかなかったんだ!
 そうすれば私はもう一度涼子に逢える!
 涼子として生まれ変わることで、お前が生まれた罪は許されるんだ。
 お前を愛してやる……お前は母さん似だ。涼子になれ」
 初めて父に抱きしめられた。
 心が震えた。例え捻れた愛でも欲しかったのか、これから女として見られる事への恐怖か、自分でも分からない。
 しばらくの我慢だ。欲しい物を入れるためには、犠牲にすることもある、それが大きな夢ならば、その代償も大きい。



 その一週間後には、俺は新しい身体を手に入れて目覚めた。
 あまりにもあっけなく、俺の体は変わった。白すぎる病院の天井は、男だった日々の映像を見せるスクリーンになった。カルリーネと抱き合った記憶ばかりが映し出される。
 自分に失望するほど、未練ったらしい。

 そうだよ、これで俺は神の声を手に入れることが出来るんだ……
 金切り声でシャウトする醜いロッカーたちにはならずにすむ。カルリーネはそんな俺を見たくない筈だ。
 そうだろう、そうだって言ってくれ……カルリーネ。

 その時、夢から現実に引き戻すように無神経なドアが開き、看護婦が微笑んだ。
「良かったわね、今日からあなたは女の子よ」
 何も分かってねえとはこのことだ。
 ウザい、ウザ過ぎる。消しゴムで消したいくらいに。
「あなたはとても綺麗だわ。羨ましいくらい。きっとステキな人生が待っているわよ」
 予想出来たその言葉に今さら鳥肌は立たないが、いざ言われると改めてダメージを蓄積される。
「頼むからあっち行ってくれませんか」
 看護婦の目つきがピクリと鋭くなった。しかしすぐに微笑んで大人を取り繕って静かにドアを閉めた。その態度はとても助かった。

 タイの病棟から見下ろす景色は、乾ききった枯れ草色の大地と薄青くそびえる山、灰色の街。この窓から何を見たかったというんだろう。
 雪も降りはしない。俺の心はこんなに寒いのに。



 帰国後は毎日、父の前で女性ホルモンの注射を自分で打って見せた。
「早く大きくなれ、涼子と同じ背になるまであと少しだ。もっと胸を膨らませ、涼子ぐらいに。私の命は短いんだ……」

 えげつない言葉とホルモン注射に心身は不安定になっていく。

 父はもう、悪魔以外の何者でもない。涼子になることが親への恩返し。
 神の声を手に入れることを約束してくれたのは、おぞましくもこの父なのだ。
 腕を捕まれベッドに引き倒される。抱きしめられる。
 この上なき地獄だ。
 殺すことはたやすい。
 悪魔になる境界線を踏み切ってしまいたい。
 
 そんなときこそ俺は個室に鍵を掛けオペラの練習をした。
 そのソプラノ域の声だけが、安堵と希望の光だった。この声はもう、俺を裏切ることはない。
 咳込んで悔し涙を流す先輩たちの哀れな顔を、我が身と置き換えずにすむ。
 薄暗い部屋で、俺は1人笑った。
 バカみたいに。



 父の看病を理由に学校にも行かなくなった。
 カストラートの声を手に入れられる代わりに受ける代償だった。
 俺の呼び名は涼子。
 そして俺に言える言葉は「はい」と「いいえ」しか許されなかった。
 ホルモン投与から三ヶ月、父が死ぬ間際の一ヶ月間、おぞましいほど胸も膨らんできた俺は裸にされ、添い寝をした。
 カルリーネとの夜を経験していたからこそ、身体を触られる事ぐらいは我慢出来た。父の手は尻や胸、そして手術した部分をなぞった。
 ただその愛撫には境界線があってそれ以上のことはしなかった。その境界線を踏みきったとき、俺は獣のように抗うかもしれないことを、分かっていたからだ。

 俺の手でも楽に殺せる父、その境界線を俺自身が守ったからこそ。
 何度も、踏み切りそうになった境界線を、父もまた感じ取っていた。

 何度も殺そうと思った。

 俺を踏みとどまらせたのは恩義だけだった。
 添い寝をするようになって父の目は、今まで以上に、俺が見たこともないほど輝いて、話しかけてきた。決まって母との想い出を語り、そこにだけ彼の心の居場所があることを知った。
 夜中に水を飲ませる、トイレ介助、身体を拭く、全て俺がやった。
 
 早く死ね……

 いつもそう思った。
 父にとっての俺とは母を想い出させる道具。
 怒りは諦めることでなくなり、父へ持っていた僅かばかりの愛も、同情さえもゼロになった。毎日の添い寝、身体をなぞる手、しかしそれも動物的な本能に感じ始め、嫌悪感は麻痺していった。


 そんなある夜、俺の身体を撫で回す手が止まり、急に咳き込み鮮血が飛んだ。
 ケビンと過ごしたレノン島。
 死んだバンドメンバー達の血と同じ色じゃねえか……。
「オヤジ……」
 冷静に観察出来ない自分がいた。
 あんたも孤独だったんだな……。
 俺と同じように……。

 更に夜は日々刻まれていった。
 日を追って弱り果てていく父が、俺を見るたび満悦の笑みを浮かべ瞳を輝かせた。
 人はどんな状況でも、好きなものや興味あるものを見たりすると、未知の力が何処からともなく沸き出てくることを俺は知った。

 早く死ね……、と思っていた心は、悔いなく死ね……に変っていた。

 父の寝顔と、ガラス窓の向こうに輝く夜の月を見ながら、俺は父の完全な死期を察知した。弱く浅い呼吸と呻き声。

 明日が限界だな……。

 母の着ていた蒼いドレスを着て看取ってやるよ。
 それで全て終わりだ。俺はこの腐った鎖から解放される。


 その朝は来た。
 親族には極秘にされていた。誰も寄せつけるな、静かに死にたい。
 そのすべての配慮をしたのは郷原だった。

 父の息はさらに浅い。そして目を開けて俺をしっかりと見た。それが最後の気力を振り絞った言葉を喋ろうとしている事は分かった。
 どんな遺言を言っても、微笑んで見送ればいい。
 オペラでやった劇のように自分の心を殺して、成りきればいい……。
 早く死ね、この劇を終わらせてくれ……。

「す……すまなかった」

 すまなかった……聞き間違いだろう?
 だが、苦痛に痙攣しながら
「すまなかった大鷹……本当にすまなかった。だがどうしても、変われなかった。私はお前を憎んでしまう。変わることができなかった……。
 これからはお前の好きなことをやれ……好きなように生きれ……

 立派なカストラートになれ……」

 大鷹と呼んだ。
 分かっていたんだ……父は俺の意志を……

 涼子と呼んでいれば、最後まで騙された振りをしてくれれば、何も思わずにすんだのに。
 それが父の最後の言葉だった。母が死ななければ、父は俺を息子として愛してくれたのだろうか。俺はそのたった一言で、氷山が溶けたように涙が溢れ出た。
 悲しみのエナジーが、抑えようとする感情を突き破った。

「オヤジ……」

 やっとふり絞ったその言葉は、父の耳に届くことはなかった。







 そして、俺の更なる地獄が始った。
 部下の郷原忠幸は、俺が18歳になるまでの間、角魔邸を引き継いでくれる事を父と約束していた。だから俺はこの家を離れずに済んで、やりたい放題に出来た。
 戸籍の性別は変えていなかった。
 極秘の手術の事も、ずっと隠し通した。

 やがて俺は13歳の春を迎え、中学からは名門校に行ったが、次第に回りから女っぽいとからかわれ始めた。過剰反応してすぐに殴り合い、いつも相手をボロボロにした。
 その都度、教員室へ呼び出され、情緒不安定になっていると言われた。

 カストラートたちが歩んだ道だった。

 俺にだって耐えられると信じていた。
 しかし、当世では認められていたし成功すれば莫大な富と栄誉の約束されていた道だが、俺が生きる現代では極秘の違法手術だ。周囲の視線におびえながら、それがゆえに、手負いの獣のように暴れまくる、それが俺だった。

 そう、俺はもう気付いていた。

 自分自身が、心は男、身体は女の性同一性障害者とすり替わっていた事に。それが、こんなにも重苦しい事なのかと。

 すべては、神の声を手に入れるため……。

 父の死と同時に女性ホルモン投与もやめ注射器を叩き壊した。それでも急激に膨らんだ胸はすぐには元に戻らない。この胸を切り捨てる手術など、すでに違法手術をしている俺が誰かに頼めるわけもない。
 男性ホルモンを投与すればのど仏が急成長し、カストラートの声が出せなくなる。

 男の体に戻る道は、すべて遮断されていた。
 
 このまま、こんな身体で大人になるのを待つしかないんだ。
 そして俺は……身体検査の前日に登校拒否し、自ら好んで退学処分を受けた。

 夜の道を当てもなく彷徨う。
 こんな俺にも友達はいる。彼らとも、もう会えない。
 俺はどこへ行こうとしているのか。そのとき何者かに背後から抱きつかれて倒された。胸を鷲掴みにされ、荒く熱い息が首に吹きかかった。

 馬鹿な……俺が背後をとられるなんて……。

 男は更に二人いて素早く脚に組み付かれ股間に顔を埋められた。
「久しぶりにいい女だぜ」
 俺はやっと事態を飲み込めた。

 ふざけるな……ぶっ殺してやる。

 普段の動きさえできない自分に狼狽した自分がいた。心の隙をつかれ素人相手に不覚を取る、こんなの俺じゃねえと抗う身体がいうことを聞かない。手際の良すぎる下劣なハンター達に衣服をハサミで切られ引き裂かれ、頬を数発殴られて目が覚めた。

 おまえら、殺す。

 殺気だけで戦い、やっと我に返った身体で殴り倒し、間接を取りへし折る。
 気がつけば、三人組の奴らを半殺しにしていた。


  *                 *


 あの夜をきっかけに、ますます誰にも会いたくなくなった。
 身体をジロジロ見られる事で疑われる事が、辛さを倍増した。
 真夜中のベッドは眠るためのものではなく、俺を絶望の黒い海にこぎ出す小舟。

 こんな筈じゃなかった……。
 俺はこんなにも、もろかったのか……。
 自分の身体が女になっていく……。

 袖を肩までまくり上げて白い両腕を天井に突き出す。筋肉が付きにくくなった、白くなよなよした腕。体毛の一本も生えなくなった身体。悪戯に膨らんだ胸を鷲掴みにした。このままちぎり捨ててしまいたい。

 ……自分が気味悪い。

 かつて、恋愛やセックスを人生から削除され、自殺したカストラート達の怨霊が、俺の身体に取憑いている。胸の奥に潜む恐怖が、フーッと身体から抜け、闇にさえ更に際立ったどす黒い陰を作った。
 黒い天井に、見知らぬ白い顔がクッキリ浮かび上がった。男にも女にも見える生首はニヤリと笑った。

「私の声を手に入れるためだと強がったお前の報いる罰だ……」
「誰だお前は」
「女の肌は柔らかいぞ、だがお前はもう女を抱けない……
 それで一流の歌手になれなかったらお前の人生は何の意味もなくなる。
 死ね……男でも女でもなく、自分の居場所も掴めずに死ね。それがお前の選んだ道だ」

 闇の中を、女とも男とも付かぬ悪魔の笑い声が包んだ。凄まじい声だった。それは俺が気絶しそうになるほど、凄まじい……もう一つの神の声。

「消えろ!」
 壁に掛けたヤマト刀を抜いて振り下ろした。
 生首は引き裂かれて消えた。
 闇の中に、うっすらと浮かび上がる輪郭。俺の目は、やっといつもどおりの部屋を映し出した。深いため息が黒い空間を包んだ。

 浮遊霊か……幻覚か……
 そんなんじゃねぇ。あれは俺自身の迷いだ。
 何だっていい。俺は貴様のようなカストラートにはならない。
 少なくとも……
 生きる事だけは捨てはしない。



 苦しみから光を求めて、俺が足を運んだ場所は子供の頃親しんだ剣道の道場、輝道館だった。艶やかな褐色の板が張り巡らされた場内。師匠の常磐竜神が中央に正座したまま、俺が来るのを待っている。
 俺はゆっくり正座して一礼した後、真っすぐ師匠の目を見た。変わらぬ目の輝き、肌つや、黒い髪は今年で56歳とは思えない。身体は小柄で、この三年の間に俺との身長差はさらに縮まったようだ。
「久しぶりだな、大鷹」
「師匠……」
 俺の事を、我が子のように可愛がってくれた。剣道部で1番強かった俺の才能を愛し、道場の練習が終わった後も、個別に指導してくれた。父の道場に通わず、ずっとここへ来たのも「お前が生まれなければ」その言葉だった。


「ウィーンでの活躍は耳にしていたぞ。よく頑張ったな」
「師匠……俺にもう一度、剣道を教えて下さい!」
 強くなりたい、強くなることだけが俺に残された男の証明だった。
 男を捨てたくない、俺は男なんだ。そんな思いだけが心を支配した。師匠は何も言わず竹刀を取り立ち上がると、来いと片手で合図した。
 立ち上がって向き合うと、もう身長は追い越していた。この3年間で、こんなにも身長が伸びたのか。それが剣の腕も上がったような錯覚を起こさせる。
 捨て身で斬り掛かった。
 師匠は一の太刀を弾き返す、二の太刀も弾き返す。悉く弾き返す。
 剣を振りぬきながら感じる冴え。師匠の返し技がすべて見えた。何故だ、ズタボロに打たれることしか考えられなかったのに、互角に戦っている。ただ今は攻めるだけ。
 冷静な目で隙を貫き足を払う。
 師匠は倒れた。
「おうおう、今のお前にはとても勝てない。強くなったな」
 俺は蹲踞の姿勢を取って一礼した。腕が震えているから全身も揺れた。
「こんな筈は……ないです……」
「どうした、大鷹。偉く謙虚になったもんだな。だが私は手を抜いてはおらぬぞ。さては舞台のために剣を鍛えていたか」
「アドニスの役で剣を。中庭でも毎日素振りはしていました」
 師匠は俺と向かい合ったまま正座した。
「何かあったのか。昔のお前の剣には殺気と奢りと力みがあった。今のお前にはそれが全くなさ過ぎて不気味だ。剣とは辛いときほど良くなるか悪くなるかだ。全てを忘れようと無になれば逆に冴えることもある。今のお前はそれだ」
 何と答えればいいのかも分からない。俺は固唾を呑んだ。
「だが同時に、それは危険でもある」
「強くなりたくて……」
「強く……?」
「男として……男として強くありたくて……」
 師匠は俺をじっと見つめた。その目は俺の心も身体も透視しているように澄んでいて誤魔化しは利かない。
「腕は上がったが精神はまだまだだな」
 返す言葉もなかった。やはり師匠は鋭い。
「私の望んだ答えはそんなことではない。まあお前はまだ若い。才能もある。剣はお前を裏切らない。行き着くところまで剣を極めるも良し、オペラに帰るもよし、お前が決めるんだ。私が教える事はない」
 そして師匠は「ここで待っていろ」と言って道場から出た。


 俺はむしろ、負ける事を望んでいた。
 そうすればまた師匠に鍛えて貰う事が出来る。しかし勝ってしまった以上、教わる事は何もない。
 そしてすぐに戻ってきた。その手には、分厚い書物を持っている。
「これには天然理心流の極意が書いてある。ここから先はお前自身で修行を重ねるのだ。剣の修行には終わりはない」
「師匠! 師匠の望んでいた答えとは何なんですか。教えてください!」
「それはお前自身の手で見つけろ。こいつを持っていけ」
 立ち上がった師匠が腰に差した刀を鞘ごと抜いて両手に持ち、水平に差し出した。
「師匠……」
「この刀は村雨、強き者の手に収まるのがふさわしい。お前がオペラを目指したとき、私は悔しくて残念だった。お前が才能があったからだ。しかし私の期待よりも、お前の人生の方が大切なことに気がついたよ」
 俺が、どう切りだそうかとしていた言葉を、師匠は先に導いていた。
「声楽のことはよく分からぬが、お前はウィーンでもトップになった。お前の活躍ぶりは、ヤマトでも評判になっていた。おまえの歌を聴いたときは涙が出た。角魔大鷹は剣により血に飢えた獣のごとく生きるより、芸術に生きた方がよいのだと納得した。
 それがなぜ、何の前触れもなしにヤマトに戻ったのか……そのことはどうでもいい。お前がまた、剣道を思いだして、ここへ来てくれただけで私はうれしい」
 それは今の俺にとって、一番有り難く、そして癒される言葉だった。
「師匠……俺はもう、刀を手放す事は一生ありません。俺にとって必要な一部分であることに気がついたんです」
「そうか……。それでよい。道があって、人が歩かされるのではない。人があって道ができるのだ。オペラしかり、剣道しかり、お前の道を歩くんだ、大鷹」
 俺はゆっくりと礼をした。
 俺の生涯で、最も長い一礼だった。








 俺は、この世でただ一人、我が儘を言える執事の郷原にだけ行き先を告げ、北海道へ一人旅立った。
 とにかく、18までは自由にさせてくれ。
 この簡単な言葉を何も言い返さず、最後の使命を全うすべく、角魔邸と道場を守るべく郷原は静かに頷いた。その深い瞳は、俺の異変を静かに見守っているように見えた。
 いつ、何処にいても。

 俺一人の存在を埋め尽くすに余りある原生林。
 俺一人の存在を知らしめる、落ち葉を踏みしだく足音。
 山岳、石を削る川の清水。
 足が地についている。ここなら、生きていける。俺を静かに受け入れてくれる。
 山にこもった俺は、天然理心流の極意秘伝書を読み、その型を確認しながら枝を切り、葉を斬る。舞い落ちる葉はなかなか切ることができない。
 春を斬り、夏を斬り、秋を斬った剣。
 捜し続けた、俺の居場所。
 切られた葉……ゆっくりと舞い落ちる。
 ただ、剣を振り続け、夜になると崖の上から地上を見下ろしアリアを歌った。いつまでも、この心が安まるまで、歌い続ける。そして深い眠りにつく。
 そしてまた目覚めると剣を振る。
 人と会わないことで、俺の心は次第に平常心を取り戻していった。のどの渇きをいやすように秘伝書をめくっては、一つ一つの技を取得する事に生きがいを見いだしていた。
 そして、夜に歌うアリアは、自分を何よりも勇気づけてくれた。
 カルリーネが教えてくれたトレーニング法をやりながら斜腹筋を鍛える。自分に勝る敵はない事を知れば限界まで自分を追い詰められる。
 剣と歌、それは雄叫び。
 一人になる事で見えてきた新しい世界。
 俺の目の前には今、一本の道がクッキリと見えていた。
 そんなある日、俺の耳に曲が生まれた。今までに書いたこともないタイプの曲。ロックだ。持ってきた楽譜に俺は音符を書き込んでいった。持って来た楽器はギター一本。それで十分だった。
 このまま、この木々と崖の世界で四季を感じながら、いつまでも過ごしたいとさえ思う。そして俺は狩りをするようになった。
 最初の獲物はノウサギだった。
 アドニス神話に導かれるように、俺は狩りをした。剣の成果を試すには現代人よりも野生動物の方がはるかにいい。
 木の陰を伝い、刀を抜き、シカに襲いかかる。
 シカは斜めに飛んだ。俺も飛んで刀を振り下ろした。シカの首が飛んだ瞬間、俺の血は一気に引いた。
 ゆったりめの黒装束の着物は、俺の成長も支障なくこの身体を包んだ。
 近くの滝で全裸になり身を清める。そして禅を組む。
 一日も欠かさず夏も冬も、名も無き滝で身を清めた。
 付きにくくなると言われた腕の筋肉も少しずつ付いてきた事を日々確認しながら。
 それでも水鏡に映る我が白い肌とその身体のラインは、たとえ微かにでも見たくない。 自分の身体を見ることに不快を感じ、バシャバシャと水辺を走り砕いて黒装束を身にまとうこともあった。
 まだ、この身体に慣れるには時間がかかる……それだけだ……。


 そして四年の月日が流れた。

 極寒の地で何度も飢えを切り抜けていくうちに俺はいつしか不食の身体になっていた。食わずとも死なない。世界にも存在する極少数の特殊な体質。しかしそれでやせ衰えることはない。筋肉も落ちない。
 イオマンテに初めてクマを斬った。クマを斬ることによって神の声を我がものにするのだと……それは俺自身の儀式だった。


 それはいつものように平穏な蒼い朝だった。
 狩りに明け暮れる俺は、朝早くから山奥の原生林に入り込んだ。
 剣の成果を試すとき、動物たちの野生のカンの鋭さに、自らのカンも磨かれた。
 野生のシカ、その危険から逃げ出すときの素早さ……斬ってみたい。角で突かれたら終わりだ。俺がどんなに足が速くなっても、あいつらに追いつくことは出来ない。だから猫科のハンターのように、大自然のあらゆる影を伝い接近して斬り掛かる。
 そして、あいつらは敏感だ。憶病すぎるほど。だからハンターとしては、どこまでも殺気を消して自然の一部となって近づかなければならない。普段と違う動きをすればそこに必ず何かがある。
 そんなシカの群れの動きが、いつもと違う。
 今日は何かがある。
 軍神アレスが木々の闇に浮かんだ。
 何故だ……あれは幻像か。あの幻像は何を知らせようとしているんだ。
 そして気がついた。この山に人間が来ているのではないか。銃の匂いをかぎつけたシカたちが移動を始めたのか。
 しかし今は五月、狩猟のシーズンではない。
 もしや、俺の命を狙うものがいるのか……。だとすれば、かつてオーディオキラーを稼働して戦ったレナードの国家機密部隊。ケビンは生きているのか。
 レナード兵の暗殺部隊だとしてもおそらくは明るく通りやすい山路を登ってくるだろう。いつ来てもおかしくないとは思っていた。
 大歓迎だ。普通の人間なら恐怖することが俺には一つの余興になっていた。もはや尋常な心ではない。いつの間にか自分は野生化したんだ。自分の命を狙ったレナード兵に、報復したいという思いが常にあった。
 来るなら来い。
 早く来い、グリーンベレー。
 遠く林の間から自分のネグラを視察した。そこは岩場に掘った洞穴。
 五人の兵隊服を着た男が出てきた。音を立てぬよう銃口に布を巻いている。恐らく奴らは、俺のねぐらを発見するや銃を発砲したに違いない。シカは銃の焦げ臭い匂いを、吹き上げる風から判断して移動したに違いない。
 鍛え上げた部隊、野生のシカとどっちが上か比べてやろう。俺の剣から逃げ切れたらお前等の勝ちだ。
 そしておそらく、俺が帰りつくのを一晩は待つだろう。
 アドニス神話の呪いだ。レナード兵に化けた軍神アレスが俺の命を取りにやってきたか。あの五人を斬るのは今だ。夜まで待つほど俺はヒマじゃねえ。
 息を殺し裏手に回り接近する。この洞穴にはもう一つ入り口がある。そこはまだ発見されていないようだ。シカを斬るときのように足音を殺した。五感、そして第六感のオーラを読みながら俺は敵の背後に近付く。
 次第に相手の声が聞こえ始めた。
「まさかこんな山の中にいるとはな。角魔大鷹、タイで手術するとは考えたものだ。そこまでしてカストラートになろうとはな」
「カストラートの声でオーディオキラーを稼働されたらレナード第七艦隊も全滅するらしいぜ。あのケビンという男は何を考えているのかわからない」
「ケビンは生きている。クルーガー上院議員が匿っているらしいぜ」
「厄介な奴らだ……ケビンとダイオウ」
 好き勝手にしゃべるレナード兵たち。すでに俺の四年間の行動すべてが把握されていたことが怒りに火をつけた。

 斬る!

 風になった瞬間、レナード兵の驚愕した目、号令、全てが止まって見えた。剣閃が闇を斬り五人の肉体を切り裂いた。遅れた機関銃の銃声が洞窟に反響した。
 四年の月日は、俺を剣豪に変えていた。
「ヴィーナス、カルリーネ……」
 なぜこの時、彼女の笑顔が浮かんだのかは分からない。
 何も言わずにウィーンを去って六年、彼女は今も歌っているのだろうか。殺しのプロフェッショナルたちを斬捨てた。同じように俺の声も、もう大人のカストラートにも負けない筈だ。
 カルリーネに逢いたい。この剣が、時が熟したことを教えてくれた。完璧なアリアを彼女の前で歌いたい。

 カルリーネ、もう一度抱きしめたい。
 この強くなった腕で。
 俺は今、やっと光を見つけた。その光に向かって、走るんだ。





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