第二章 ベルクート允
Berkut Joe
こうして二週間が過ぎ、狩りをする日がやってきた。
祖父の腕には允、ムラトベックの腕にはカクシャールが留まったまま、獲物を求めて山に向かう。標高四千メートル近いこの付近は酸素も薄く体を温めるために、片手に持ったクムスがあっと言う間になくなる。
「今日は寒いが天気がいい、動物たちも出てきそうだ」
ムラトベックは胸を躍らせながら、まだまだ雪が残っている五月の天山山脈をかみしめるように歩いた。二羽の若いイヌワシを連れての狩りは、滅多に出来るものではない。
獲物を求めて、ただ歩き続ける。
日は天高く上り、少しずつ西に傾いていることに二人は気づく。実際に獲物にありつくということはなかなかない。時々小鳥を見かけるがイヌワシを使ってそんな獲物を取るわけにもいかない。山の天気は変わりやすく空を雲が覆ったかと思うと、また、日が差し込み、そしてまた雲が現れる。
允は急にカクシャールを促すように大空に舞い上がった。もちろん、カクシャールはついて行く。
「允、どうした!」
ベックの声を置き去りに、允の身体は大空に吸い寄せられていった。
やっと見つけた獲物は大きなオオカミだ。しかしムラトベック達がいる山と反対側の崖にいて、彼らが行きつくのには時間がかかる。かなりの大物だ。普段はムラトベックたちが獲物の近くまで来るのを待ってから襲いかかる允が、この時は単独で行動に出た。
(本気か…!)
カクシャールは愕然と允を見送った。 急降下する允、見る見るオオカミの姿が大きくなっていく。カクシャールはハッと我に返って
彼の後を追いかけるように滑空していく。オオカミはかなり大きく、赤い目をギラつかせ殺気走っている。
この奇襲に失敗すれば逆に殺されるだろう。
カクシャールは恐怖を覚え降下するのをやめてそのオオカミの上空を旋回する。オオカミが気配に気付き、空を睨んだそのとき、允は激突するようにオオカミの頭を掴み、その目から耳にかけての頭皮を鷲づかみにした。
オオカミは激痛に大暴れして吠える。允は絶えず羽ばたきながら応戦した。イヌワシは自分の体重の倍以上とものを持ち上げる力がある。允の強大な爪はオオカミの頭骨をガッシリと挟み込んでいるため、どんなことがあっても抜けない。
「赤目だ!あのオオカミは赤目だ!允!危ない!」
ムラトベックは祖父と共に雪面を滑り降り、銃を片手に今度は岩場を登り始める。
「ベック、撃つんだ!ダムディンスルンと同じ事になるぞ!」
允は激しく乱闘している。至近距離まで近づかねば誤って允を撃ちかねない。ムラトベックたちにとっての獲物は生活の糧である。 しかしそれ以上に允が赤目の逆襲を受け、殺されるかも知れないことが不安でならなかった。
しかし允はすべてを計算していた。彼はオオカミとの一騎打ちを望んだのだ。
カクシャールはその戦いを見ようと低空飛行でその周りを旋回し続ける。暴れて石や岩に允を叩き付ける。しかし允はそういうときこそ羽ばたかずに身体を丸め耐えた。
そして起き上がると同時に猛烈に羽ばたき、傷口を広げ破壊する。この攻撃を繰り返した。
為す術もなく、狂犬赤目は疲れ果て、激しい出血で気が薄れ始める。
激痛の舞が終わり、ついにドスリと倒れ込んだ。出血多量によるショック死だ。カクシャールは感動でガクガクと全身が震えていた。允の足下にひれ伏すオオカミ赤目、
オオカミを狩った男……その勇猛な姿を彼は今まで野生のイヌワシに見たことがない。
自分が最初は人間のイヌと愚弄した允の真の姿がここにあった。しかし、これが允の本当の姿ではなかった。允はゆっくりと大空に舞い上がりその正体を見せる。
「俺がなぜここで狩りのけいこをしてきたか分かるか。俺の本当の夢はこんなもんじゃない。この山ともお前とも、今日で最後だ」
「どういうことだ、允」
「俺は強くなりたいんだよ。世界で一番強いワシにな」
「お、お前、ここで人間と狩りをして暮らすんじゃなかったのか…」
「いいや、俺はもともと、強くなるためにあいつと暮らした。これからは、鷲戦士として世界中のワシと戦ってみたいんだ。あの男には世話になった義理がある。ここまで俺を強くしてくれた義理がな。だからあいつは俺の無二の親友だ。だが俺にはもっと大きな道がある。あいつなら、分かってくれるような気がする」
「鷲戦士か……」
そしてムラトベックが駆け付けたとき、すでにオオカミは死んでいた。允はその上空を旋回しながら鳴き続ける。
「允、どうしたんだ」
いつもとは様子が違う。允は上空を旋回しながら、いつまでたっても舞い降りてこない。
「允!」
何度呼んでも、彼は逃げることもなく、降りてくることもなく、上空で鳴き続ける。ムラトベックは天の声を聞くかのように、目を閉じて允の鳴き声を聞き続けた。祖父は彼と上空を交互に見る。
「そうか、允。お前は野生に帰りたいんだな。俺への最後の贈り物が、このオオカミだったのか。わかった…分かったよ」
そして彼は大空に向かって叫んだ。
「ジョー!お前は世界で一番強いワシだ!元気でな!」
允とムラトベックの間には真の友情があったからこそ、こうして言葉が通じなくても、分かり合えることができた。祖父はその光景をじっと見守っていた。
(ムラトベック、お前はたいしたもんだ。鷲や鷹と心を通わせている。儂以上に。お前こそ本当の鷹匠なのかもしれない。儂には聞こえない言葉が、お前には聞こえているんだな)
祖父もまた大空に手を振った。そして叫ぶ。
「ジョー!野生のワシに負けるな!たくましく生きていくんぞ」
これにはムラトベックが驚いた。允が野生に帰ったことでワシに逃げられたかと怒られるだろうとばかり思っていたからだ。
「じっちゃん…」
「いいんじゃ。ワシを主人と思え。允は逃げたのではなく旅立って行ったのじゃ。あいつは聡明なイヌワシじゃ。何かとてつもないことを決意したに違いない。あいつの門出を祝ってやろうではないか」
そのとき、あのカクシャールが允とは逆に舞い戻ってきてムラトベックの腕に留まった。
「カクシャール…」
ムラトベックは息が詰まった。カクシャールは允のように強くなりたかったのだ。ムラトベックのもとで修行を積み、いつかは自分もオオカミを取りたい、そんな野望が燃え始めていた。
允はしばらくの間、別れを惜しむかのように大空を旋回していたが、やがて遙か西の空へと飛んでいく。さらばムラトベック。さらば生まれ故郷のキルギス。世界に誇るイヌワシ最強種属Berkut允の戦いの旅が始まった。
そして、5年の月日が流れた。允は戦いと狩りに明け暮れその戦術も更に磨きがかかり、アジアのイヌワシを中心に、ロシアでは95cm、7kgのオジロワシ、北極圏では最大最強の王者1m10cm、10kgのオオワシとの死闘にも急降下の戦法で勝利した。
彼の名声はユーラシア大陸の、同じスカイファイターや、山谷、密林の王達に、無敵の鷲豪Berkut允として広まっていく。
あらゆる縄張りの王者と戦いながら、勝利したあとは相手を傷つけずに、新たな国を求めて戦いを繰り返していく。
そして、旅に始まった5年という月日は、様々な情報を彼に教えた。地球が丸いこと、自分は北半球にいること、更に衝撃だったのは南半球には世界三強と言われるワシがいるということ。ユーラシア大陸のワシより南半球に住むワシの方が強い種族が多いこと。
しかし戦いに明け暮れた日々は、心を荒ませた。この旅の途中で彼はイギリスのスコットランドで同じイヌワシのイライザとつがいを持ち、生まれた子供にゴードンと名付け、彼が巣立つまでの一年の歳月をそこで暮らした。彼に敗れた男達は、Berkut允は火の鳥が燃え尽き、王者から男に還ったのだと思った。
しかし、允の人生の目的はまだ達成されていなかった。それは種族を超え、世界三強と言われるワシと戦うことだった。そして再び旅を決意し、妻はその思いを理解した。允はこういう男だと。こんな允が好きだと。
允は7歳、心技体共に円熟期を迎えるという頃だ。戦いの中でしか本当の生き甲斐を見いだせない允。世界三強、それは南アメリカのオウギワシ、フィリピンのフィリピンワシ、そして東アフリカのカンムリクマタカだ。北半球のユーラシア大陸を制した彼は、最初の登竜門カンムリクマタカと戦うべく、アフリカへ行くことを決意した。
そして、遙かなる大陸アフリカはサバンナ。どす黒く分厚い雨雲、どしゃ降りの雨の中、一頭のオスのライオンの背中にまたがる青い顔の巨大なワシがいた。その体は、あの允よりも遙かに雄大だ。ライオンの姿をも覆い尽くす黒い翼、黒いくちばし。牙よりも太く鋭い爪。
ライオンは頭を中心に、体中のあちこちの肉をもぎとられ、血まみれで、大地を赤く染めていた。オオカミ狩りの允を遙かに上回る力。
「俺はやった。百獣の王ライオンを倒した!俺は最強だ、最強のワシだ!天と地の王、オウギワシのブラッドだ!」
ライオンの上で彼は全ての動物たちに向かい叫ぶ。雨音が強く、空には稲妻が光る。ライオンの身体から流れ出た血は川となり、流れてゆく。ハイエナもハゲワシたちも、その姿を遠巻きに警戒し震えながらじっと見ていた。ライオンも彼らにとって、死ねばただのエサ。
「俺はわが故郷、南アメリカに帰る。さらばだ。アフリカ大陸の獣たちよ」
青い頭のワシはライオンの背中で大きく羽ばたく。
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