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 Biograpy -活動記録-2000
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◆◇◆

 1月25日 「命の地平線」の全国出版
       以後3ヶ月は本の宣伝活動
       時任氏、中山氏に本の紹介文章郵送を、協力してもらう。
 3月    鷹輝流の絵の制作
 4月    施設訪問演奏 ミニトーク&ライブ                         三味線の演奏 岡本看護士
       MAD ABOUT LIFE、GO ALONE、上田

 5月    イリス宮崎で二回目の個展「剣の舞」
       展示期間〜2週間
       展示作品 女性画デッサン 10枚
              劇画・鷹輝流 15枚
       搬入・搬出協力者 時任氏
       大分〜吉田氏 来賓

 8月    まほろば福祉会・納涼祭
       MAD ABOUT LIFE、FOLLOW ME
       GO ALONE 上田

 9月    大分「浄運寺」で講演
       上田賢次の半生 45分間
10月    オリジナルアルバム製作開始

         医療管理専門学校講演&ライブ

2000.10/6(金) 9:10〜12:10

       1時間目 
       1.挨拶と生い立ち     10分
       2.病院を出て得たもの 15分
       3.音楽の紹介 20分
       2時間目 
       4.今時の障害者を切る            20分
       5.今時の福祉を切る  20分
       6.絵の紹介。もう一つの夢 質問コーナー   10分
       3時間目
       7.自分なりの苦労の乗り越え方「夢があったから」
       〜試された1年間〜 15分
       8.人生の哲学           20分
       〜走り抜く人生こそ楽しい〜

12月    宮崎「田中書店」中央店前で路上ライブ<雨のため中止>

◆2000年総評◆

 命の地平線、大ブレイクこそならなかったが、この本がもたらしてくれた人との出会いに感謝!以後本の製作にあたって、何かと原稿チェックしてもらうことになる合田さんである。この本を出していなければ、彼には会えなかった。その一方で、音楽活動における、主催ライブはなくなった。
 だからといって、暇になったわけではない。みんなでやることが少なくなって1人でやることが増えだした時期だ。

◆強力アイテム◆
 
行動・機動力アップ

『どこでもドア』が創設された年。無二の親友時任氏はこのころから、行動力抜群で、大物になりそうな予感がしていた。彼と中山氏の二人とは、数えきれないほど、居酒屋に飲みに行ったりお好み焼きを食べに行ったりしていろいろ楽しく話した。
 『どこでもドア』ができたことで、私の外出の機会も増え、宮崎市内へも頻繁に行けるようになった。

 
◆当時の、講演文章を見つけました。現在は原稿を書いていません。慣れてくると原稿なしでもしゃべることが、できるようになるんですね。この、専門学校での初公演は自分と激しく熱く語ったものだなあと、原稿を見ながら今思います。ですが2007年現在も、招待を受けています。今年はもう終わりました。本当に修正をしていない原稿なのですが生の部分が伝わると思うので、あえてそのままにしました。
医療管理専門学校講演&ライブ原稿紹介。

1.挨拶と生い立ち     10分

 皆さんおはようございます。今年の1月25日に「命の地平線」を出版しました。S41.12/9福岡生まれ。23歳す。まあ、人生これから。今日は3時間ということで、上田賢次のエキス。生まれたときは、それはそれは可愛い男の子でした。しかしこの可愛い賢ちゃんに、試練が訪れます。生後間もなく発病。病名。2歳から国立病院を入退院の繰り返し。
「病院で死なせたくない」父からよく言われた言葉は「男は大きくなれ」
「男は強く優しくあれ」そして「夢を持て」

2.病院を出て得たもの 15分

 僕は今からもう4年前に病院を出ました。病院というものは決まりだらけ。
「患者さんの命を預かっている」危険が伴うことは一切だめ。何かあると病院の責任。何で俺はこの人達の都合に合わせて生きて行かねばならないのだろう?命を預かっているという言葉自体が「おごり」でしかない。火事、地震
病院を出てやっと「一人の人間になれた」全て自己責任。病院を出て得たもの。まず、第一に、
「自己責任が持てるようになった」 「まほろば福祉会 翼」自己責任、保険
「活動がしやすくなった」外出、外泊自由。門限もケースバイケース
「ナンパが上手になった」ピッチピッチギャル実習生、なぜか集まる。得意技
音楽。電話番号。恋は横糸、夢は縦糸
「仲間・友達」       支えてくれる人たちのおかげで今の自分がある。恩返し。

 こうやってまとめてみると、結局病院を出ることで人間らしい生活

3.音楽の紹介

 GO ALONE              FOLLOW ME
 MAD ABOUT LIFE        NOTHING
 LIFE WITH YOU          渡り鳥
 INFINIA
 Remember
 ガリレオの愛
 BLAZING RED

4.今時の障害者を切る           30分

 トの字になるな。黒板に人という字を書いて説明。
 ええ、これからは障害者のあり方、私は障害者と考えが合わない。

私がよく見る「甘えた障害者」 健常者を励ましてます!と堂々と言い切るアホ。
片手片足が動かない、グジグジ。勿体ない。
「してもらう主義」。これはどうにかならないものか。
「要求」する事から「生きる権利・生きていく保障」を得た我等障害者。未だ行き届かぬ面は更なる要請が必要だが、全体を通して豊かになった事は確かだ。そろそろ「してもらう」から「して返す」を主眼とした団体が出てきてもいい時代になってきたが、肝心の「社会奉仕団体」があまり見当たらないのだが。
 日々の暮らしが保障され、何不自由ない生活は「自由時間」を作る。その「自由時間」を何らかの形で社会に奉仕出来ないものか。障害者は常に報酬を受ける対象とされているが、障害者にもボランティアは出来る。
 障害者が集まって健常者にボランティアしてもいいのだ。
 このことを多くの障害者が忘れている。よく、福祉関係のイベントで「障害者が50人でボランティアが60人」とか言ったりする。これなどは頭から両者の関係を「してもらう側としてあげる側」に分けて考えているいい例だ。
「してもらう」には「して返す」がなければ、いい関係は続かない。
「人」という字を、お互いがこの棒無しでは立っていられないのだ。これが障害者に至ってはカタカナの「ト」になりがちだ。
真っ直ぐ立っている棒が健常者。右にくっついている短い棒が障害者。
 この二つの棒の関係はどうかというと如何にもバランスが悪く、ほうっておけば右に倒れる。右側の線が真中の縦線を支えていないからだ。一人で立ちたい真中の線は、いつか横線を外す事になり、その受け皿が施設・病院であるという訳だ。
 障害者を介護している家庭で、親が介護疲れで無理心中したケースや過労死したケースがある。これなどは「トの字」の生んだ最悪の悲劇だ。
「親にしか介護してもらえない」というのはまず第一にその障害者に親を労る意志が欠けているし、家にこもりすぎである。まず外に、本当の友達を作ることから始まる。
親は福祉施設を使うべきだった。また、外へ目を向けさせる教育を、障害児の親はしなければならない。
 では、障害者が「人」であるにはまず、何をしなければならないか。
 答えは、誰かを支える、社会奉仕する。
 たとえ寝たきりの老人でも、それは出来る。その人がある若者に本当に親身になって物事を聞く、話す、そして助言する。まだ人生経験の少ない若者は老人の助言によって、時には励まされ、時には勇気を貰い、そして成功を収めた。
 その若者は言うだろう。あの老人のお陰で今の私がある。あの老人がいなければ、今の私もなかったと。
 この老人こそ「人」である。老人と若者が人として支え合っている姿なのだ。我ら社会人は働いていないというだけで社会の役立たずのように取りがちだがそうではない。誰かを支えられることの方が「人」らしいのだ。
 例えどんなにお金を稼いでも、誰も支えていなくて、その仕事もいくらでも代役がいるとなれば、社会から必要とされていない訳だからもはや人ではない。
 しいていえば数字の「1」だ。どっちへ倒れても支える人がいない。こういうタイプの人間がよく自殺をする。
 障害者達よ、どうか立ち上がって欲しい。何かあるにつれ障害のせいにするのは自分で自分を差別している証拠だ。障害者はただでさえ国から多大なる恩恵を受けている。働かなくても年金がもらえる、このことをもっとシビアに受け止めよう。
 私の場合、社会参加する一番有効な手段が歌だった。
「上田さんに逢えて良かった、勇気づけられた」
「ライブに感動した」「人生観が変わった」
 今まで歌をやってきて、こういうことを沢山の人から言われた。そしてその言葉が今度は私を「歌をやっていて良かった。また頑張っていい歌を書いて歌いたい」という気持ちにさせてくれた。お客と私が支え合って「人」を形成した一例だ。私がお金で社会参加したのは今まで、本の出版やライブの出演料、自作の絵の売買ぐらいで、私と同年代の普通のサラリーマンに比べて年収的には遙かに少ない。
 しかしたとえ利益が出なくても、年金はたいてでもこれからもやっていきたい。
 そして自分は「年金を貰っている」ということを当たり前のように思いたくはない。
 年金なんていらないよ、というくらい自分の仕事で稼ぎたい。
 私にとって年金は夢を実現させるために国が投資してくれた借金だ。
 私は人と付き合うに当たって「して貰ったらして返せ」という事を父から教えられた。
 いつか、夢を叶えることで、私が書いている歌や小説や絵が、世の中に求められるようになったとき、その恩返しが出来る。
 そしてこういう自分の道を持った障害者達が政治で、会社で、自営業でそれぞれの個性や才能を生かして社会参加することが当たり前になったとき、始めて真の平等が勝ち取れる。障害者かいなければ国が成り立たないというところまでくれば、頼られている、つまり他のものを支えているわけだから、もう「ト」ではない。
私の思い描いていることは100年先のことかも知れない。
しかしいつか必ずそんな時代が来て欲しいと願っている。

5.今時の福祉を切る

 先ほどは障害者を正しましたけど、今度は福祉を正したい。
 これから病院、施設等で働かれようと思っている方、患者の気持ちが分かる
「いい職員は必ずしも職員から好かれない」
 テゲテゲな気持ちで医療現場に携わろうと考えている方は、来ないで欲しい。やめて下さい。医療の質が落ちる。厳しい言葉ですが、これが現場からの率直な声です
 では、プロフェッショナルな職員とは、どんな職員か。
 まず言葉遣いから正せば、上から見下げる物の言い方をする人は最悪。某病院の婦長、当時29になる私に「僕」ときた。これは明らかに「見下し」であり非常識。
 年が下のくせに目上の人に「君付け」するのもおかしい。全員にそうかといえばそうじゃなく、健常者にはちゃんと「さん」と言っている。
 明らかに差別だ。私も今まで何人に注意しただろうか。頭の位置が低いからといってすぐ撫でる、叩く。ふざけるな!「あんたら体は丈夫だが頭は病弱だな」
 病院・施設職員が一番気をつけなければならない第一は「相手を差別せず過保護にせず同情せず一人の人間として見ること」にある。これが物事の基礎だ。
 更に言えば「病院・施設は客商売として勤めるべし」である。だから逆に我が儘な患者がいたらどんどん注意していい。「病気だから可愛そう、これぐらい許していいや」という考えも逆差別。その人が更に甘えるだけ。常に対等という意識を持とう。

 つぎに、これは筋ジス病棟でよく見かけるが、子供に対して、反抗期の我が儘な中高生に対して注意ができない看護婦、指導員が多い。先ほど例に挙げた「病気だから可愛そう、これぐらい許していいや」という逆差別的考えに該当する。
 年も上なんだから注意する権利は十分にある。そしてみっともないのは「注意」じゃなく「ケンカ」に走る人。こうなればもうドングリの背比べだ。勝手にしろ。
 そして逆に大人に対しては礼儀が成ってない事が多い。大人になるとある程度我慢が出来、少々言い過ぎても反抗しない。この「反抗しない」という部分につけ込んでやたら馴れ馴れしく頭や尻を叩いたりして自分だけでこの人とはコミニュケーションが取れていると勝手に勘違いされるのも困る。
「親しく」と「馴れ馴れしく」は全然違うことをわきまえておこう。
 次ぎに職員が一番、患者、及び利用者に言っては成らないことは「きつい」ということである。その道のプロとして仕事をしている以上、これは禁句。福祉に限らず、どんな仕事でも苦言を口にして客に接しては成らない。
 厳しいことを言うようだが、これが出来て始めてプロである。
「きついときほど笑え」
 きつそうな顔をしていると回りに影響を及ぼすからだそうだ。私は感銘した。これは全てに共通する言葉だと思った。そしてこれから自分がプロとしてやっていく上で私自身の教訓にしたい。
 この親方こそプロ中のプロである。
 患者の出来ない部分を手助け。大切なのは「お互いを尊重しあう」

6.絵の紹介。質問コーナー

7.自分なりの苦労の乗り越え方「夢があったから」
〜試された1年間〜 20分

 自分は今まで障害のある体で生きてきて、「もういやだ」とか「死にたい」とか思ったことは一度もない。逆にそういう人を見ると腹が立つ。
「苦労を真っ正面から受け止めない」ようにしてる。真っ正面から受け止めたら本当に潰れてしまいそうになる。お酒を飲めない人に急にウィスキーをロックで飲めなんて言われたらぶっ倒れるでも何日かに分けてだったら飲めますよね。父を亡くしたときが人生最大の修羅場でしたが、その時も完全に受け入れるまで一年間かかりました。毎晩夢
あの時と同じぐらい辛かったのが去年の夏でした。
 もう二年前なんですが、宮崎でライブをした年の暮れに私は医者から、「血液中の酸素の量が少なくなってきている」ということを言われました。そろそろ夜間の人工呼吸器を付ける頃だと言われた。
 その時はやはりショック 眠れなかった。亡くなっていった仲間達を見てますから  寿命が分かる。5年。それから5年というのを計算しながら毎日を送るようになりま  した。血ガスの検査結果が60%命の地平線はそんな中で書き上げた。夢があったから、攻撃的に、挑戦的に生きることが出来たんです。
「自分より夢が大切」あの半年間は辛かった。
 医師からは入院を勧められて気管切開も考えてくれとか言われました。
 去年の8月という医師から、もう時間がないということを言われました。今年の冬も乗り切れるかどうかは五分五分だと言うことも言われ入院を強く勧められました。私が医師に言ったことは、自分は寿命を縮めても入院する気はありません。
悔し涙 自分の人生もあと残りわずかか。ここで余生を楽しく何てみじんも思わなかったですね。
  
8.人生の哲学           30分
 〜走り抜く人生こそ楽しい〜

人生は足し算か引き算か これは重要なこと

「どう死ぬかはどう生きるかだ」ということを副住職の吉田さんが、もうだいぶ前におっしゃったんですけど、最初はその意味が分からなかったんです。それが分かってきたのが丁度去年の辛かった時期。
 結局自分は死ぬ間際まで絵を描いていたい。曲を作りたい。
 最高の死に方はライブで最後の一曲を歌い終わって死にたいというのを友人に話したりしました。
人の人生は若いときが一番よくてそれから月日と共に下っていくという見方をした人が多い。体を使った楽しみしか知らないからそうなる。心を使った生き方が出来れば、毎日が楽しい。日々前進が確かめる。
そして積み重ねのある生き方が出来れば、毎日が楽しいと思います。
「体の成長は二十歳で止まる、心の成長は一生続く」日々前進
「人生は時間の限られたゲーム」と思ってます。ギリギリまで頑張って、価値があるものなんだ。命に価値はない。心に価値がある。「命より夢が大切」
 『命の地平線』タイトルの意味 堕落もある。何もしたくない。理想と夢だけは捨てずに、悔いのない生き方をしたい。 本の紹介
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